2016年2月14日日曜日

10.枠組みみたいなものへの変な気持ち

今回は表題についてである。
インドネシアのお話からは一旦離れるが、前々回少しだけ書いた、枠組みに対してのなんとなくの変な感じを今日はお話しするつもりで書く。

先日、とあるアーティストの来日イベント的なものにたまたま行くことになり、行った。
音楽のイベントではあるのだが、ライブイベントではなく、いわゆるアートなイベントという名のものと執り行われた。

その表現内容の意味するところは、個人の主観に依存してしまうものであろうが、実際に行われたこととして最も印象に残っているのは、ループシステムを用いて、ギター音を重ね続け、最終的に爆音ノイズを聞かせるというものだった。そこの演奏環境もコンクリの打ちっぱなしみたいなところでたいへんよく響いた。

大きい音にはテンション上がるのが世の常、俺は拳を振り上げ、うぉおとかその類を叫びたい衝動にかられた。しかししなかった、あるいはできなかったのである。なぜか。

それはこれがアート的なイベントだからであることに他ならないのだよ。

注目したいのはアートという言葉の持つ魔力的なものである。「アート」に対して上層的なイメージが俺にはある。
もともと美術館といった空間はアート鑑賞指南の場所であったというのもどこかで読んだ気がするが、つまるところ拭えない高尚なイメージと鑑賞者の監視の目が気になってしまうのだよ。これは別に俺に限ったことではないと思うがいかがなものでしょう?

これがライブハウスだったら、お客さんは歓声をあげたんじゃないの?と思わないこともなかったのだ。しかしながら終わったとたんに拍手喝采。
それが鑑賞マナーというものなのか?
こんな一連のことがあって、よくわからないがアートという枠組みに対してよくわからない気持ちになったことは確かである。

なんか作るとか生み出す、みたいなことはそれが何であれ人間にとってかなり上位ランクの善行だと漠然と考えている。(しかし、それで大切な人を悲しませちゃだめだぞ!)
だからアートもかなり尊厳度が高いものかなぁとも思うところです。

しかしアートというこの枠組みによって、客席のみなさんにはアートなものに触れるという前提が備わるのであって、それに畏怖の念を抱く者あれば、優越感を抱く者もあることだろう。別にいっこうにして構わないのだが、とにもかくにも、実はこの「アート」によって観客者の「自由な感情の表現」=「創造」が著しく損なわれているのではないかね?とも感じたりする次第である。

これを全て枠組みのせいとしてしまうことはあまりにも乱暴であって、これにはかなり複雑な事情がありそうなものだ。
一個人としての意見すらまともにまとめることができないので、とりあえず変な気持ちになったということだけ述べることとした。先日のアグネスちゃんの言葉を思い出し、いろいろ学んでみようか。

まあもやもやは残りますが、なんとなく自身の納得いくものを作らなきゃなぁという気にさせられてよかったです。


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